旅を重ねていく中で、記憶に残るのは意外にも、華やかな観光地よりも、ふとした食事だったりする。土地の香りが宿る一皿に出会った瞬間、その旅はただの移動から、特別な“体験”へと変わる。福岡・長浜にある大衆食堂「おきよ」で味わった「ごまさば」こそ、まさにそんな記憶の中に残るひと皿だ。

ごまさばとは何か──素材と技が光る郷土料理

「ごまさば」とは、福岡の食文化を象徴する郷土料理のひとつである。脂ののった新鮮な真サバを薄く切り、特製の甘口醤油ダレに漬け込み、たっぷりの炒り胡麻と青ねぎを散らしていただく。調理法はいたってシンプルだが、そこには鮮度へのこだわり、味の調和、そして“土地の舌”を知り尽くした料理人の勘が凝縮されている。

サバは「足が早い」魚として知られ、生で食べることを避ける地域も多い。しかし、玄界灘に面した福岡では話が違う。対馬海流に鍛えられたサバの身は引き締まり、脂の質が違う。だからこそ、この町ではサバを刺身で食べる文化が根付き、ごまさばが当たり前のように食卓に並ぶのだ。

長浜鮮魚市場の“となり”にある食堂、「おきよ」

そんなごまさばの真価を味わいたいなら、地元の人が通う食堂を訪れるのが一番だ。そしてその筆頭格が、長浜の「おきよ」である。

店は、長浜鮮魚市場のすぐそば。市場で働く人々や漁師たちの胃袋を長年支えてきたこの老舗食堂は、観光客向けの演出を一切持たない。だが、暖簾をくぐった瞬間に広がる香りと空気に、「本物だ」と直感する。壁には著名人のサイン色紙が整然と並び、いかにこの店が愛されてきたかを物語る。

入り口にはホワイトボードにびっしりと書かれた「本日のお献立」。その中でもひときわ人気を集めるのが「ごまさば定食」だ。サバの身は分厚く、口に入れた瞬間にわかるその弾力と、とろけるような脂の甘み。醤油ダレは店オリジナルで、胡麻の香ばしさと絶妙に調和している。

“うまい”の一言で、全てが伝わる

「うまい」──この言葉ほど、「おきよ」での食体験を端的に表す言葉はない。

それは奇をてらった創作料理のうまさではなく、どこまでも素朴で、誰もが「懐かしい」と感じる、体に染み込むような美味しさだ。魚の扱いに慣れた職人たちが、その日仕入れた魚を見極めて最適な調理を施す。ごまさば以外にも、アジフライ、煮魚、刺身、さらにはあら汁など、どれを取っても「魚の町・福岡」の底力を感じる。

定食には小鉢や漬物もつき、味噌汁には魚のアラが使われる。まさに“福岡の朝の香り”が、トレーいっぱいに広がっている。

屋台の文化とともに生きる、福岡の食風景

夜の福岡といえば、那珂川沿いにずらりと並ぶ屋台の灯りが思い浮かぶ。赤ちょうちんに誘われてふらりと腰を下ろせば、そこにもまたごまさばがある。屋台ごとに味が異なり、刺身の厚みや醤油の調合にも個性が光る。

「おきよ」での一皿と、屋台での一皿。どちらも福岡らしいが、まったく違う顔を持っている。店構えや食器、客層──すべてが味に影響を与え、それぞれに“福岡の味”があるのだ。

福岡の旅が記憶に残る理由

観光地の名所を巡る旅もいい。しかし、心に深く刻まれる旅は、どこかで“暮らしに触れる瞬間”があるものだ。おきよのような店で、ごまさばを一口味わう──その体験こそが、旅を特別なものにする。

地元の人々に混ざって食べる定食。働く人々の背中を見ながらすする味噌汁。早朝の市場に立ち上る潮の香り。こうしたすべてが重なり、福岡という都市の“肌触り”を五感で感じ取ることができる。

一膳のごまさばが語る、福岡の誇り

「旅の思い出は、味で残る」──この言葉は決して誇張ではない。なぜなら、ごまさばという料理には、海と人の営み、そして福岡という都市の文化が詰まっているからだ。

観光ガイドには載らない場所にこそ、その土地の“本音”がある。「おきよ」は、その象徴のような店だ。ぜひ一度、福岡を訪れる機会があれば、足を運んでみてほしい。奇をてらわない一皿が、きっとあなたの旅の質を、静かに、しかし確実に高めてくれる。

店名:おきよ
住所:福岡県福岡市中央区長浜3-11-3 市場会館1F
営業時間:6:00〜14:00/18:00〜23:00(日・祝休)
おすすめ:ごまさば定食、アジフライ、刺身盛り合わせ

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